巨大な鉄釜はれっきとした商品だった。
旧日光街道に面して江戸時代から商いをしている金物店。商品を移動する為のトロッコレールが街道から奥の蔵まで敷かれていてその痕跡が未だに残っている。そのレールに導かれて進むと左手に大きな鉄釜が二つ鎮座していた。高さ直径共に1.5mほどあろうか。庭にもう一つあると聞いて写したのがこの写真。飯炊き用の羽釜と異なるのは4か所に吊り上げの為の鉄の輪が付いていることだ。戦時中金属供出の対象にされたが、防火用水という名目で免れたそうだ。それにしても何故四つもあるのか。聞くとれっきとした商品で売り先は染物屋らしい。草加を中心に周辺は浴衣染めが盛んな所とのこと。そうするとこの鉄釜は藍染液の容器すなわち藍甕なのか。しかし伝統的に藍染めは信楽焼などの陶器の大壷を地面に埋めて温度を一定に保って藍を建てるのだが、果たして生きている藍にとって鉄の容器は問題が無いのか。そこまで頭を巡らせたが答えは出ない。外側に「野洲佐野鋳物製」と生産者名が浮き出ている。滋賀県野洲(やす)は銅鐸文化の時代から鋳物産業が根付いていた地方である。遠いその生産地から仕入れたこの大きな鉄釜という道具が当地でどのように使用されて来たのか。今後解明してみようと思う。
大沢 匠,2023,vol.187