マスクとパンツ
人類の誕生は、直立二足歩行にはじまる。前足を器用に使い道具を手にし、草原に立った。かつて四つ足で森に暮らしていたころ、オス猿の目の前には、メス猿の赤いお尻が、性的なサインとして機能していた。立ち上がり顔と顔を見合わせるようになって、また腰に布を巻くようになって、そのサインを発することができなくなった。
霊長類(たとえば近縁のチンパンジー)には「唇」はない。ときどきめくれ上がるが、内側の粘膜が外出し興奮すると赤くなる唇は、人類にのみ存在する。さらに赤い紅をぬるのはファッションではない。同様に猿には程よい高さと大きさの「鼻」がない。軟骨でできたこの人類の鼻も「性的自己擬態」であると、デズモンド・モリスはいう。パンツを履いた猿が、生き抜くために必死の思いで獲得した、200万年ほどのあいだの、顔面の形質進化である。
そしていま「マスク」が、その鼻と唇を見事に隠している。顔面にふたたび「パンツ」を履いてしまった。ことの重大さに、身体が気づくにはかなりの時間がかかることだろうと思う。
山田 晃三,2021.04,vol.168