「特定の誰か」に

写真は「業務用ベビーバス」である。虐待や養育困難家庭から「措置された」乳児たちの施設、乳児院で使用されているものである。

普通のお風呂が設置されている乳児院もある。しかし、職員が乳児と一緒に裸になって(つまりは身を差し出すということ)、入浴をするような乳児院は稀。職員は着衣のまま、かつ交替勤務でその業務をこなす。

この不思議さに地域での養育の拠点として突出している鳥取子ども学園の乳児部では、日々「特定の誰か」であることとしての乳児との入浴が行われている。

乳児養育の本質的な意味、即ち「特定の誰か」というものの存在を失い、自己を委ねるという今後の生を保証する最低限の行為を拒絶された乳児たちの存在基盤を取り返そうという試みが、この業務用ベビーバス、着衣入浴を行う施設からは見えない。児童福祉という法律も近代がもたらした果実ではあるが、その果実は分節化の合理という罠に絶えずさらされている。

野辺 公一,2013.04,vol.97

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