精密ヤスリ
「金属加工で最も多用する道具を二つ挙げよ」と言われれば、私は迷うことなくヤスリと糸鋸と答える。糸鋸は持ち合わせていなくとも、誰でも道具箱にはヤスリの1本や2本は入っているはずである。
ヤスリは、ゴリゴリと金属の表面を削る道具に過ぎないと軽く考え、余り吟味することはなかった。しかし、人の薦めでスイス製、vallorbe社のヤスリを手に入れるに及んで、考えは一変した。切れないヤスリで平らな面を出そうと思っても、カマボコ面になってしまう。試しにvallorbe社のヤスリを使ってみたら、研ぎ澄まされた鉋で削ったようにスパッと平面を出すことができたのである。スイスの時計職人に、長い間愛用されてきた道具の実力はさすがである。
選び抜かれた鋼を使い、鋭く刃付けされたヤスリが、美しく精度の高いスイスの機械式時計を生み出したと言える。「文化が職人を育み、職人が道具を育む」という言葉を実感した。
高梨 廣孝,2008.11,vol.043